ネクラとネアカ

 永井均という哲学者をご存知だろうか。高校生の頃に人に教えてもらって読んだ彼の本が、「考える」ということを教えてくれた。倫理とか哲学というものに興味を持ったのも彼のおかげである。さて、先日『子どものための哲学対話』(永井均講談社文庫)を購入した。これは子ども向けに書かれたかなりやさしい本だが、さっと読めてまた「考える」ヒントをくれた。全部で40ある対話のうち、「ネクラとネアカ」という章について考えようと思う。

 この本に出てくる猫のペネトレは、ネアカは「いつも自分の中では遊んでいる人」だ、さらにこういう人は上品だと言う。逆に言って、ネクラは意味のあることをしたり認められたりしなくては満たされない人だ、下品だと言う。大学でサークルに入ってから私はインキャだとか自称してきたが、この意味で言ってまさに私はネアカだと思う。

 

 嫌味に聞こえては申し訳ないが、中高の頃から勉強は嫌だとか辛いとか言う人がよく分からなかった。別に禁欲的なわけでも勤勉なわけでもない。定期試験でいい成績を取るために勉強すると言うより、新たに何かを理解するという実感が「楽しい」から1人で勉強するというのが勉強の動機だったからだ。学校の進度はゆっくりでつまらないし、元来コツなんかを人に教わるのも嫌いで、うんうん言いながら自分で習得する方が「楽しい」のだった。夜9時に寝て朝3時に起き、1人で朝食べるおにぎりを作ってお茶をいれて、早朝の静かな部屋で青チャートを進める時間は「楽しい」という他なかった。中3の頃からあまり真面目に取り組まなかった定期試験は自分でやった内容の良い復習になった。

 大学に入るといろんな授業があったが、中でもよかったのは数学と物理であった。ずっと前の人が見つけた考え方を習得するのは「楽し」かった。毎回授業に出て任意のレポートを出して着実に自分で習得することが「楽しい」から、私はそれを実行した。しかし周りの人はあまり「楽しそう」ではなかった。授業を切っておきながらテスト前には焦り出して誰かに頼る。来ている人でも、寝る。パソコンを開きキーボード音を高らかに鳴らして違う授業の課題を進める。やはりテスト前には焦る。一言で言えば「楽しくなさそう」だった。別に授業に来いと言うのではない。来なくたって自分で勉強して、悠々とテストを迎えるような人は何とも思わない。自分で片をつけて、授業がある固定的な時間をもっと「楽しい」ことに使えるならむしろそれでいいと思う。

 

 猫のぺネトレは、なんでも「楽しい」と思っている人はずるをしないとも言う。例えば将棋の勝負中、相手が席を外した隙に駒を勝手に動かすことだってできる。それをしないとすれば、勝つことを目的にしているのではなく将棋の真っ向勝負を楽しむのが目的だからである。大学の授業についても同じようなことが言えるのではないかと思う。つけ足しておくと、私は皆に大学を楽しめと言うのではない。ただ自分の楽しめるような道を選択した方が良いのではないかと思うのだ。

 

 私は人生で起こる大抵のことはゲームだと思っている節がある。ここで間違えたら終わりの大一番、戦いといったものは大好きだし、人前で何か目立つことをするのも苦ではない。一般に嫌がられるような仕事だって後々効きそうなことなら苦ではないが、とかくルールを遵守したい。それはガチャの乱数をいじるとか、ルールを外れて改造した道具を用いるという手段では真っ向勝負にならないように思うからだ。

 これを読んでいる方はーもしそんな方がいればの話だがー今の生活を楽しめているだろうか。あなたはネアカだろうか、ネクラだろうか。