今週のお題「オンライン」
大学が始まらない。2月5日に開幕した春休みは3か月にもなってしまった。5月11日に授業が開始するが、基本的に「オンライン講義」だそうである。
座学はまだ何とかなるように思えるが、実験は実際に験すことが肝要なのにオンラインで済ませて良いのだろうか。カリキュラム通りに達成できるかどうかの疑問が残る。一方、片道一時間半~二時間の通学時間がかからないのは嬉しい。既に更新してしまった計七万円ほどの定期を払い戻すかどうか、考えあぐねている。
サークル活動もできない。新歓をすることが出来ないまま2年を終えてしまっては、幹事学年になってからどうするのだろう。せっかく作品を書き上げた展覧会も延期になった。
コロナウィルスにずいぶんと振り回されているものだ。
悪いことばかりでもない。高校の友達と連日グループ通話をしている。次第に話す内容も無くなってくるのだが、無言でも友達と繋がっている感覚は安心するものだ。
コロナに乗じて親がリモートワークになった。通販が盛んになっている。いろんなものがオンラインで行われ始めている。飛び回るオンライン〇〇は、言語による階級の差別化に似ているように感じた。
フランス語は貴族の言葉だと聞いた。かつてヨーロッパ諸国ではフランス語が貴族の教養を示すために使われていたという。浅学非才で曖昧な知識だが、イギリスやロシアでは少なくともこの事象が起きていた。
神官文字も言語による差別化の一つだ。少し調べたところによると(段落後のリンク参照)、ヒエログリフ/神聖文字は書けることが権威につながる手間のかかる文字であったそうだ。これを簡略化したものがヒエラティック/神官文字、さらにこの筆記体がデモティック/民用文字である。
上の例は出来る・出来ないの問題だから厳しい区別で、これがまさにこのオンライン化、リモートワークへの働き方改革に似ているのだ。平安時代の男手・女手も似たようなものだと思うかもしれないが、あれは象徴的なもので、紀貫之だって仮名を書けば女を装えたのだから少し違うと思う。
考えればギャル文字だってギャルとしての階級を誇示するにはうってつけの読みにくさ、ネットの用語もネット民としての自負が現れた略語という感じがする。
さて、オンライン化の話に戻ろう。昨今ポイントカードやクーポンもスマートフォンにその機能を頼るものが増えた。以前母が、スマートフォンを持たないお年寄りが店先でクーポンを使えないことに怒っている場面を見たと言っていた。スマートフォンを持たざる者には与えられない権利が生じるようになったのだ。
急速に広がるリモートワークは思い立ったらできるものではない。各々がパソコンを持ち、ネットワーク環境を整え、共有するサーバーが無くてはならない。仲間内で誰かが機械はよくわかりませんなんて言い出したらできなくなる。
通販だってそうだ。販売する会社が開設するのはもちろんだが、そのサーバーにアクセスしうる人にしか通販は利用できない。
私がiPhoneで調べ物をしていると「あら、便利でいいわよね。私のでもできるの?」だとか「アプリって何?」とか聞いてくる高齢の親戚(iPhoneSE所持)はオンラインのサービスを享受できるだろうか?
PayPayなどのスマートフォン決済も小銭を出すのが大変な親戚にはぴったりだと思うが、何せアプリの概念が伝わらないから利用はかなり困難な話である。
今はコロナのおかげでなかなか外に出られない。だが間違っても、友達と電話をして暇つぶしなんてことにはならないのだ。「おうち時間」などというハッシュタグと共に家での過ごし方を私はSNSで見ることが出来るが、これもその親戚が見ることはない。きっと毎日の刺激はテレビと新聞、それからリモートワークで家にいる子供だけ。
このオンライン化・リモートワークはスマートフォンを持っていても、扱う技術を持たざる者には与えられない権利なのだ。