字を書く

私は長いこと、習字とか書道とかそういうものに関わっていた。

5歳ごろから始めて、中高は書道部、大学も書道サークルに入っていた。今、大学院生になって、書道が自分の肩書きから消えた生活を一年過ごした。“OG”という肩書きで後輩の展覧会には行っていたが、自分はとんと書かなくなった。

 

春休みになり、あまりに時間があるので久しぶりに少し書いた。元々大変上手いというわけではなかったが、半紙を数枚書けばそのくらいの感覚は戻った。

人間、16年ほど定期的に筆を持つ機会があると、1年やそこらのブランクではそうそう腕も落ちないらしい。当然やっていない間に上手くなりもしないが、腕が落ちていないということはすごく安心感のある事実だ。半生の成果が自分の腕に宿っている、つまり自分自身に証が残っている。「手に職をつける」という表現もあるが、同じような、手に半生をつけている感覚。

 

小学生の頃の私はそんなに上手くなかったと思う。今もつきまとう私の書の課題は、生気が足りないという点にある。つまり、小学生の時分から、小学生の書に求められるような闊達さが欠けていたのだ。技巧は知っているが腕が追いついていない状態で書いていたから、元気な子供らしさが足りなかった。

 

中学でもその傾向は強かった。特に欧陽詢のようなきっちりとした楷書を好んだから、固さ・生気の無さを脱却できなかった。それでも小学校時代より格段に上手くなったのは、字形全体のバランスとか、メタ的な字の見方が身についてきたからだったと思う。部活に入って他の人の字を見る機会が増えたのも要因の一つかもしれない。

中学の頃には部活で半切を書き始めた。それまでは半紙しか書かなかったから、格段に大きな壁だった。行書と硬筆も始めた。仮名も少しやってみた。

 

高校になってくると、随分と技巧に腕が追いつくようになった。高校生に闊達さはあまり求められなくなり、息のしやすい世界になってきた。半切は年々小さく感じられるようになった。

中高では学年で書道部が私だけだったので、高校生の頃には学年内で字が上手い人という立ち位置が定着した。修学旅行では各班の手紙係がお礼の手紙を出すのだが、私が書いたバス会社から「綺麗な手紙だった」とお礼の電話が学校に来たこともあったかな。学年内では上手いかもしれないけど、世を広く見ればそうでもないけどなと思いながら生活していた。

 

大学ではもっと上手い人たちがサークルにいた。頭では分かっていたけど結構打ちのめされた気がした。でも見聞が広まって、いい経験だったと思う。サークルとは関係ない学科の人は、私の手書きの字を見るととても上手いと言ってくれた。嬉しかった。

 

書道をあまりしたことのない人にはよく褒めていただく。筆とペンの字にあまり差がないタイプだからだと思う。筆を持つと上手いがペンは普通という人も結構いたから(私の記憶にある限り)。

でも書道サークルですごく上手い人ではなかった。普通に書ける人、ちょっと覇気は足りない人。そんな感じだったと思う。

 

久しぶりに書いてみて、ずっとそんな感じの立ち位置だったなあと思い出した。でも私は自分の書いた字をなかなかよく書けてると思うし、これから先も私のアイデンティティにできると思う。