好きなものはたくさんあるが、嫌いなものもたいそうある。
私とご飯に行ったことのある人は、食べ物の好き嫌いの多さを知っているだろう。母は、この子は何を言っても食べないと諦めて強要しなかった。
葉物野菜が大嫌いだった私は中学2年生で初めて、レタスを食べられるようになった。今でもちんげん菜とか白菜とかは嫌いだけど。
私はあまり母のことを尊敬はしていないが、あれも嫌これも嫌と食べない子を14年間も待った点については端的に凄いと思っている。
家族
母のことを尊敬していないのには一応私なりに訳がある。人とあまり近しくなるのが嫌いだから、もっと言えば怖いからだ。
「我が家」「大好きなお父さん/お母さん/パパ/ママ/おじいちゃん/おばあちゃん」「家族の絆」
…怖い怖い怖い。こういう言葉が苦手。嫌い。
家族だから、と献身的に世話をした結果大変な苦労をした人を間近で見ていた。家族だから、なんて一言でなんでもしてあげようするとロクなことがないんだと子供ながらに思った。
こういうのを大切にする人のことは、否定しない。けれど、忌み嫌う人のことも、認めてほしいな。多様性の時代ですし。
別に誰かに後ろ指を指されたことなどないけれど、何か自分が悪者側のような気持ちがする。認められないような被害妄想があるほどに、嫌だという気持ちが増す。
大事な“友達”
私にだって、この人のためなら出来るだけのことをしたいし、世界に対して願うことの一つに「彼女が少しでも自主性を持って幸せに生きてほしい」を挙げるほど、大事な友達はいる。
でもそれは、一番仲のいい友達だからではなくてその子だから、と言いたい。お互いドライな所があるから、友達なのかどうかもよくわからない。けれど最後はあの子しかいないと思う。
即物的な事実として他者を大切に思うことはあるのだけど、それを家族とか友達とかそういう普遍的な概念に落とし込んで話すのが嫌い、ということかもしれない。
地震
先日地震があった。あったね。結構揺れたね。災害があると芸能人が“大丈夫ですか?”とツイートをする。あれがひどく苦手だ。
ファンを大事に思っているような、遠い他者を慮っているような、そういうのが何かうそっぱちに見えて怖いから。
先日書いた一番好きな俳優Tは、地震があってもツイートしない。4年ほど前までは地震ツイートをしていたようだが。
正直とても助かる。彼の外見や技術はもちろん好きだが、情が薄そうなところが助かる。
それは例えば、卒業や別離にあたって泣かないような、そういう薄情さ。
薄情
これを読んでいる人が私のこと、これを読むまで優しくていい人だと思ってくれていたらいいな。そうありたいよ。
でも、私は結構薄情だと思う。多分あの子は知ってるな。
LINEとか、ダラダラ長くするのも嫌いだし。Twitterで壁打ちして、反応したい時だけ返してくれればいいんだ。1:1で話すのは結構大変。電話は慣れた相手なら黙っててもいいし楽だなあ。
Twitter>電話>>LINE、かな。
情に溺れると幸せな結末は難しくなる。
一線引くと楽だよね。
早くその一線を飛び越えられるようになりたいな、たった1人でいいから。