サークル

長かったサークル生活がそろそろ終わりを迎えようとしている。ようやく卒展も終わり、あとは追いコンと卒業式かな。

 

思えば、激動の4年間だった。散文的に、でもできるだけ時系列で書いていく。

 

一年目の初夏に、某事件。とある土曜日に事件についての臨時総会があったが、ちょうど私の19の誕生日だった。毎日1限から5限まで片道1.5〜2時間の大学にいた私にとって、大事な休日、しかも誕生日。まだまだサークルに愛着も無かったから、それだけのことで欠席した。

そして夏合宿の役職決め。三年まで逃げられなくなる“会計”に私は自ら手を挙げた。サークルはあれこれ入って辞めるのではなくここ一つと心に決めていたし、サークルでのイベントなどを楽しむ「権利」にはそれ相応の「義務」が付き纏うと考えていたから、苦ではなかった。単純にリーダーより支える側の方が性に合うので、幹事長決め戦争を回避したい気持ちもあった。連盟の役職は地獄でしたね。私は授業があって会議に行けないので、できなくてもどかしかった。

連盟合宿。各大学の一年生がレクをしなければならなくて、他の同期はだるそう。でも私は、やるなら大真面目にアホなことをやった方が面白いという思想である。誰も案を出さないから私が話を進めたら途中で嫌だと言われ、挙句に社会的によろしくない案を出されてキレてしまった。当時2年生のNさんに仲をとりもたれた記憶がある。

スキー合宿は中止になったなあ。初めてのスキーになるはずでした。合宿のために買った可愛い手袋とニット帽は真冬の自転車用になりました。

 

2年、なーーんにもなくなっちゃった。キャラの強い一年生が3人入ってきた。後の三役ですね。某事件で減った同期がさらに減ったなあ。

来年の役職決めは唯一会計に内定している私が仕切った。色々決めたけど、まあ「面白い」展開になっちゃったね。

 

3年、新歓。2年入会も含めて、今まさに会でときめく後輩が入ってくれた。

春の展覧会はまず実長が飛ぶ事件から始まった。「副だから軽めだよ」と副実長をお願いした子に実長をやらせる運びになり、大変申し訳なく思った。そもそも春の展覧会には2人実長希望がいたのに、飛んだ彼が留学のためというので2人には冬の展覧会に移動してもらったという経緯があり、多方面に本当に気を揉んだ。コロナ云々で延期されてモチベが下がり、大学のミスで会場が予約できていないことが判明し外部を探すことになり、なんとか夏に開催したなあ。しかもその時には幹事長が目の不調で来られなくなり、本当にてんやわんやでした。

夏合宿はあえなく中止。

冬の展覧会は、もうこれも本当に申し訳なかった。春の展覧会希望の2人(A,B)のうちAを実長、Bを副実長にしたけれど、影の実長はBだった。委員が行くはずのOBOG展の挨拶は、私とBで伺ったこともあったね。春の展覧会も含め、私の采配ミスだったなと心を痛めた。

 

4年、春は楽しかった。追いコン色紙で幽霊4年が炙り出され、色紙に書く内容が無い…という事態を3年見つめてきたから、そういう気まずい迷惑をかけない4年になろうと決めていた。だから新歓にも顔を出して、春季展も参加して、結構顔は覚えてもらえたと思う。

なんか元副幹事長があれやこれやして夏頃に消えた。卒展は会計のはずだったが、元副幹事長が飛んだおかげで初めての展覧会委員を務めた。ここの読者の1人には散々愚痴を聞いてもらったし、明文化すると私という人間の心の狭さを象徴するようなので省く。

 

4年間を通して、私は主人公であったことはなかった。私以外の誰かを台風の目として何かが起こり、しかしそれを詳らかに教えてもらえる程度には中枢にいるという微妙な、まさに三役における会計の立ち位置だった。

完全に知らなければ幸せなのに、詳細を知る非当事者というのはちょっとしたストレスになると思う。

 

私は日頃からあまり間違ったことは言っていないつもりだが、お世辞にも心は広くない方だと思う。自分に厳しいのは勝手にすればいいが、他人にも求めすぎだと自分でも思う。

嫌なら嫌だとクレームをつける傾向があり、もういいやと思えばクレームを付けるまでもなくさようならというタイプだ。大事に思うゆえに子供に説教する教師タイプと言うのかな。

私の関わらないところで適当な、自由を履き違えた、愉快な大学生どもが色々な事件を起こしてきたが、そのほとんどに私はクレームをつけていない。そうするまでもないと思ってしまったからだ。

 

色んな人に出逢って色んなことを学べて、良かった。と言える自分でいたい。

後輩は特に大好き。可愛い(見た目の話に限りませんよ)子たちがたくさんいて、話し足りないよ。

あともう少し、みんなよろしくね。