おはなし

今日はつらつらと書いてゆく。

 

話したい。

 私は常々話したいことがたくさんある。何かを見ると「なんだか〇〇みたいだね」、また何かを見ると「そういえばこんな話があるよね」。目と耳と脳の記憶を溜めているどこかがはたらいている限り、この手の発言は止まることがないだろう。

 そして、一つのものから連想したり思いついたりしたことを人に話したい。だって、聞いたらその人も「なるほど!」と楽しくなると思うから。

 実際にはみんなに私の発見は通じない。なぜって、それはこれまで見てきたものが私とは違うから。例えば同じ映画を見たことがあっても、私が記憶している詳細をみんなが覚えていないから。

 こんなに悲しいことはない。言葉は、私の話す言葉は人と私をつなぐためにあるというのに、話していることが通じないなんて。世界は残酷ね。

 

優しい

 自分で言うのもどうかと思うが、私は人に甘い。優しい。俗にいうお人よしじみたところがある。頼まれたことに時間を少々割いたところで困らない程度に暇だし、私に害を与えた過去もないなら断る理由はないのだ。

 中高に通っていた時は掃除や監護当番(という謎の放課後見回り当番)を代わってくれる相手を探している子の当番を代わり、エプロンをして行かないと怒られる掃除場所に当たった子にはいくらでもエプロンを貸した。

 テスト前に勉強を聞かれたりノートを見せてほしいとLINEで言われたりすれば、自分のやっていたことを止めてその子の為に問題を解いたりノートを写真に撮って送ったりした。

 今だってそうだ。誰かの課題を手伝うことを厭わず、人に何かを貸したり与えたりすることをためらわず、人が面倒に思うような雑事を引き受ける。

 

けれど、みんなのいちばんになれないの。

 

どうして

 普段は意識してこなかったが、私が人に優しくするのは畢竟、話し相手を求めているのではないか。もしかしたらこの人は私の話に「なるほど!」と言ってくれるかもしれない。私が「なるほど!」と思うような話をしてくれるかもしれない。

 探している相手は、誰彼構わず話してみないと出会えない。みんなが私の「良さ」に気づいてはくれないかと探し続けている。博愛主義的なところがあると自称しているが、きっと話し相手欲しさがためだ。

 そしてみんなに分け隔てなく接すれば商人の役得とでもいうべきか、さらに多くの価値観を吸収してアイデアは豊かになってゆく。

 だけど、みんなのいちばんにはなれないわ。

 

続 どうして

 どうしていちばんになれないのか。答えは簡単、私が相手を「一番」らしく扱わないから。こんなに簡単な、しかも自分が原因のことのために私は何を悩んでいるのだろう。馬鹿らしい。

 でも、でもね、この人は探している「話し相手」かしらって探るときにね、普段考えていることの一片を見せてみるの。これについて来られなかったら、私の奥底までついて来られないもの。それでね、結局ね、一片でさえついて来られる人なんてほとんどいないのよ。

 だからこれからも、博愛のこころで人に接して、探すしかないの。

 一人いれば十分じゃないかって?それではお互いに世界が広がらないわ。それにね、どんな人とも、いつでもいつまでも一緒にいられるわけじゃないの。できるだけたくさんの人に私の話で「なるほど!」と思ってもらいたいし、たくさんの話を聞いて「なるほど!」って思いたいの。

 

 私の話を聞いてくれる大学で出会った友人の一人は、私と中高からの友人(=数少ない話し相手)のことを「新種」と形容したが、そういうことかもしれない。つまり、たくさんの人に話を聞いてもらいたいと思うあまり、その言動は一般的な同年代の人間からズレていったのかもしれない。

 

まとめのようなもの

 世界の終わりの「死の魔法」という曲をご存じだろうか。今のSEKAI NO OWARIになる前の、世界の終わりによる曲。これを聞いているとどことなく人間の外から歌われた歌のような気がして、他人事に思えない。

 これからも「みんなが大好きよ」と決して嘘ではなく、心の底から言って、みんなの一番になれずに生きてゆくのかしら。