北極と南極

人に思うこと

例えば人と話していて、こんなことが分からないのか、どうして今ここで問われていることを見抜いた返答ができないのかと純粋にびっくりすることがある。なにもバカにしたいのではない。中学受験をしたあとの中高の同級生、大学受験をしたあとの大学の同期。学校の入試を通したならボーダーより下の人は入れないのだから、自分と同じ程度の人がひしめく空間だと毎回勘違いする。そして、冒頭の純粋なびっくりである。

これも嫌味な言い方だが、私は結構頭も回る賢い方だと思う。けれど世の中どこまで行っても上がいて、自分の賢さは上の下ぐらいだろうとか考えているから、ついつい自分より上の階層のことばかり目に入る。そして自分より下の層の、そして大多数である人々に出会うと驚いてしまうのだ。

 

期待すべきではない

私は他人にいつも期待して、勝手にがっかりしている。

例えば待ち合わせに早めに来るとか、遅れるならそのことをできるだけ早く分かる限りの情報を添えて連絡するとか。友人に急いで要件を伝えなくてはいけないときに多少そっけない文章であることなんかどうでもよくて、簡潔な要件の送信が最重要であるとか。時間をおいてやり取りし合うメールやLINEなら、頻度を上げるか内容の濃さを上げるかの対策を講じないと何も進まず相手もイライラするだろうとか。他人が”布教”としてBlu-rayを見せてくれるならスマホなんかいじったりせずに真剣にすべてを目に焼き付けるとか。

相手も私のことを気遣ってくれるだろうと内心期待しながら他人に優しくする。当然だと思っていた「気遣い」は当然ではないので、私にだけは返ってくることがなくがっかりする。

 

まるで正反対

一方である友人は人に期待しない、特に何も感じないと言う。私も友人も人間の行いや活動に対して考えすぎている。みんな気にしないことを議論して生きている、スルースキルが低い。

この友人とは似ているようで、実は正反対。私は人間に期待しすぎ、友人は期待しなさすぎ。まるで北極と南極である。さしずめその他の幸せな他人は温暖湿潤気候に暮らすとでも言うべきか。

私たちはお互い生きにくいと感じていて、いつも世界の他者に対して思うことを話し合う。そんなことを議論している時点で、一等不幸な種類の人間である。きっと大多数の幸せな人間は、みんな何を考えて生きているんだろうと気に留めないのだろう。幸せなら、そのまま歩み続ければよいのだから。

 

それでも

それでも私は人が好きなんだと思う。人のことが好き。ずっとずっと諦めきれず、何回でも期待して、がっかりし続ける。人が好きだからやめられない。

本当にみんなが幸福な時が来てほしいし、人の優しさが搾取されない園を希う。

奪うぐらいならいくらでも奪われた方が幸福だ。