私を動物に例えると

 就活に限らず、自分をアピールしなくてはならないシーンはあるものだ。アピールの場で対峙するのはドアを開けるまで互いに「知らない誰か」だった人間なのだから、何とかして相手は私のことを知ろうと根掘り葉掘り聞いてくるわけだ。

 定番の質問が「あなたを動物に例えるとなんですか」「あなたを一言で言うとどんな人間ですか」の類だ。実際にGoogleで上記の質問を検索してみると良い。うんざりするほど就活サイトに出会えること請け合いだ。この動物はこんな性格なので自分のこれこれという部分のアピールにぴったり、といったありがたいホームページがたくさん見つかる。

 

 

 私はこういう質問が実に気に食わない。犬は忠実だの猫は気まぐれで懐かないだの、一枚岩的な認識に半ば呆れる。それならば人間はどんな特徴があると思いますか?と聞き返したくなる。

 大まかに捉えて犬が飼い主に忠実な傾向があるとしても、その傾向を外れる個体が存在することは、真面目で勤勉で几帳面な(はずの)国民の国・日本で不倫報道が多発することから考えてもごく自然な事態だ。

 

 SDGsが誰一人取り残さないことを掲げ、日本の女性が就活のヒール強要に声を上げ、感染症を恐れぬ「人種のサラダボウル」の具たちが黒人差別に幾度も行進をするこの世界で、堂々と人種による能力差を語れば無事ではいられまい。

 実際、俗に肌の色によって分類される人種ごとのDNAの差は僅かなものでしかないとも言う。

 だというのに、どうして犬は犬種ごとの性格がどうだとか我々がふんぞり返って批評しても良いのだろうか?

 

 例えばハーマイオニーが、自分の飼い猫のクルックシャンクスは非常に気まぐれだが、なればこそ時たま構ってくれる瞬間が愛おしくて仕方ないと感じているしよう。そういう個体を一匹知っているからと言って、猫全般にその性格を拡大解釈するのは集合とその要素の関係を勘違いしている人間のやることだ。ハーマイオニーなら決してそんな無茶な推論はしないことだろう。

 

 結婚しなくても、異性を愛さなくても、心身の性が一致しなくても、そしてそれを一致させる手段をとっても、誰がメイクをしても、、、みんな違ってみんないいと世界は考え始めたはずなのに。

 その博愛の心は人間にしか適用されないのか。個を愛し認めることの一方で取り残された一枚岩がまだまだある。

LUPICIA

今週のお題「好きなお店」

気付けば長くこのブログをさぼっていた。せっかくなので、私の好きなお茶の専門店・LUPICIAのおいしいお茶を紹介しよう。

 

・白桃烏龍

これは昨年の誕生日に学科の友人からもらったもの。烏龍茶の味と共に香る白桃は夏にぴったりの品だった。

 

アルフォンソマンゴー

マンゴーの香りがする紅茶。特に甘いマンゴーの香りがするが、味はサッパリとしていて飲みやすい。

 

・マスカット

これもまたマスカット香る紅茶。台所で淹れていると「えっうちにマスカットあるの?」と弟に聞かれるほど、香り立つ。アルフォンソマンゴーより爽やか。

 

・セ パフェ!

昨年のサークルの合宿で4年生が差し入れてくださったLUPICIAで余ったものをいただいた。ローズヒップが前述のマスカット級に香る。名前のインパクトにも決して負けていない。あまりローズヒップが得意ではなかったので母親にあげてしまったが、おいしく飲めるハーブティーを見つけたい。

 

アラビアンナイト

これが欲しくて先日は高い送料を払ってLUPICIAの通販を利用した。ザクロとジャスミンが香る紅茶と説明されているが、はっきり言ってザクロとジャスミンの香りが圧勝している。サッパリしたフルーツティーを選びがちなのだが、これはすこし妖しい大人の香りがする。

 

・完熟マンゴー烏龍

さっき聞いたような組み合わせじゃないかと思うだろう。実際私もそう思う。しかしおいしいのだ、マンゴーの入ったお茶。烏龍と合わせるためか、アルフォンソマンゴーほど甘ったるい香りがしない。

 

・白桃煎茶

白桃烏龍と何が違うんだ、などと思った方。これが違うのだ。烏龍や煎茶といった東洋系のお茶にはさっぱりした味の方が合うらしく、烏龍同様甘すぎない桃の香り。飲んですぐは普通の煎茶に思えるが、後からすうっと桃の香りがする。

 

朝お湯を沸かすのが面倒なので前の晩に水とティーバッグをボトルに入れて冷蔵庫で水出ししているが、朝冷え切ったボトルを出すのが楽しい。

ここまで見たら分かるだろう、私はいわゆるサッパリ系のフルーツティーばかり選ぶ。

LUPICIAのサイトを少し覗けば、例えばオペラというカカオ入りのアッサム、フレジエという苺とクリーム入りのアッサムといった甘めの紅茶があるほか、ハーブティー日本茶もたくさん扱っている。

今後はもう少し手広くフレーバーティーに挑戦するつもりなので続報をお待ちくだされば幸い。

女子力

 中高の友人がインスタグラムのストーリーにあげていた記事を読んだ。いわゆるジェンダーに関して興味を持っている友人で、その記事も属している団体でライターとして書いた記事である(以下のリンク参照)。

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 記事では、タイトル通り女子力という言葉に対して彼女の感じたモヤモヤがよく記されている。この令和の時代にあって、女子力という言葉が性別による役割分担を助長すると。

 

 今日はこれに共鳴して、なかなか人に伝わらない私のジェンダー観を軽く記しておく。男女の役割的なイメージはあって良いと私は考えている。詳しく話していこう。

 何かを決断した際に「ここでやらなきゃ男が廃ると思った」と言うことが間々ある。私は生物学上女だし、自認している性も女である。これがまさに私の考えているジェンダーの在り方だ。

 

 よくあるように、

男→勇敢、力持ち、決断力がある、筋肉がある

女→家事ができる、美容に気を遣う、かわいらしい

といったようなイメージがあるとする。この男女の概念が、一人の人間に内在する。その人のジェンダーに関わらず。

 誰もが自分の性を何と自認していようと、好きな時に好きに表現すればいい。自分を男性だと認識し普段から「男」らしく振る舞ってきた生物学的には女性の人が、ある日美容に気を遣い始めてもいい。なぜなら「女性」とラベリングされる特徴はその人の中に内在し男ていたのだから。

 

 ある日は誰かにかわいいと言ってもらいたいなあと思ってアイシャドウの塗り方を調べ可愛いイヤリングを探すが、もっと髪を短くして知らない人から「どっち」なのか迷われる見た目になりたい日もある。別に男装趣味とかいう問題でもない。

 

話は戻って女子力だが、これは概念の方の女子を指しているので別に構わない。モヤモヤすることも特にない。女子力が私において発揮されようと、男性において発揮されようと、それは個々に内在する女子の概念が表に出てきただけのことだ。

オンライン化

今週のお題「オンライン」

 大学が始まらない。2月5日に開幕した春休みは3か月にもなってしまった。5月11日に授業が開始するが、基本的に「オンライン講義」だそうである。

 座学はまだ何とかなるように思えるが、実験は実際に験すことが肝要なのにオンラインで済ませて良いのだろうか。カリキュラム通りに達成できるかどうかの疑問が残る。一方、片道一時間半~二時間の通学時間がかからないのは嬉しい。既に更新してしまった計七万円ほどの定期を払い戻すかどうか、考えあぐねている。

 サークル活動もできない。新歓をすることが出来ないまま2年を終えてしまっては、幹事学年になってからどうするのだろう。せっかく作品を書き上げた展覧会も延期になった。

 コロナウィルスにずいぶんと振り回されているものだ。

 悪いことばかりでもない。高校の友達と連日グループ通話をしている。次第に話す内容も無くなってくるのだが、無言でも友達と繋がっている感覚は安心するものだ。

 

 

 コロナに乗じて親がリモートワークになった。通販が盛んになっている。いろんなものがオンラインで行われ始めている。飛び回るオンライン〇〇は、言語による階級の差別化に似ているように感じた。

 

  フランス語は貴族の言葉だと聞いた。かつてヨーロッパ諸国ではフランス語が貴族の教養を示すために使われていたという。浅学非才で曖昧な知識だが、イギリスやロシアでは少なくともこの事象が起きていた。

 神官文字も言語による差別化の一つだ。少し調べたところによると(段落後のリンク参照)、ヒエログリフ/神聖文字は書けることが権威につながる手間のかかる文字であったそうだ。これを簡略化したものがヒエラティック/神官文字、さらにこの筆記体がデモティック/民用文字である。

www.y-history.net

 上の例は出来る・出来ないの問題だから厳しい区別で、これがまさにこのオンライン化、リモートワークへの働き方改革に似ているのだ。平安時代の男手・女手も似たようなものだと思うかもしれないが、あれは象徴的なもので、紀貫之だって仮名を書けば女を装えたのだから少し違うと思う。

 考えればギャル文字だってギャルとしての階級を誇示するにはうってつけの読みにくさ、ネットの用語もネット民としての自負が現れた略語という感じがする。

 

 

 さて、オンライン化の話に戻ろう。昨今ポイントカードやクーポンもスマートフォンにその機能を頼るものが増えた。以前母が、スマートフォンを持たないお年寄りが店先でクーポンを使えないことに怒っている場面を見たと言っていた。スマートフォンを持たざる者には与えられない権利が生じるようになったのだ。

 急速に広がるリモートワークは思い立ったらできるものではない。各々がパソコンを持ち、ネットワーク環境を整え、共有するサーバーが無くてはならない。仲間内で誰かが機械はよくわかりませんなんて言い出したらできなくなる。

 通販だってそうだ。販売する会社が開設するのはもちろんだが、そのサーバーにアクセスしうる人にしか通販は利用できない。

 私がiPhoneで調べ物をしていると「あら、便利でいいわよね。私のでもできるの?」だとか「アプリって何?」とか聞いてくる高齢の親戚(iPhoneSE所持)はオンラインのサービスを享受できるだろうか?

 PayPayなどのスマートフォン決済も小銭を出すのが大変な親戚にはぴったりだと思うが、何せアプリの概念が伝わらないから利用はかなり困難な話である。

 今はコロナのおかげでなかなか外に出られない。だが間違っても、友達と電話をして暇つぶしなんてことにはならないのだ。「おうち時間」などというハッシュタグと共に家での過ごし方を私はSNSで見ることが出来るが、これもその親戚が見ることはない。きっと毎日の刺激はテレビと新聞、それからリモートワークで家にいる子供だけ。

 このオンライン化・リモートワークはスマートフォンを持っていても、扱う技術を持たざる者には与えられない権利なのだ。

祖父母

 長期休みになると地方出身の友達は帰省していく。実家暮らしの私には帰省する場所はない。

 昔からそうだった。実家と言わずとも、祖父母の家に帰省している人は沢山いた。祖父母の家は歩いて10分と20分の距離にあったから、普段から行くことが多くて帰省なんて概念はなかった。祖父母の家は住宅地の隣り合った通りにあって、元日は二つの家を一日で巡るのだった。

 帰省すると、またおばあちゃんからお小遣いを貰ったんだと言う友達の話を聞いてきた。一般的に祖父母の家なんて母方に偏りがちなものだ。私がまともにお小遣いを貰って誰かと遊ぶような年齢になる前に、母方の祖母は倒れてしまった。そんな経験はしたことがない。

 

 若い声優のTwitterを見ていると、実家に帰って祖母に会ったというような投稿があった。えっもう二十幾つなのに、おばあさまが元気なの?とびっくりした。人間、成人するころには祖父母なんて要介護状態で世話をする一方だろうという固定観念がどこかで形成されてしまったからだ。

 

 

私が自己憐憫のごとく言及する「祖父母」は母方だけであることに気付く人もいるだろう。実は父方の祖父母は至って元気な方なのである。祖母は油絵、祖父は写真を嗜む人だ。

 祖母は料理が非常に上手くて、夏は特に庭で育てた野菜も収穫して食べている。裁縫もうまい。敬虔なクリスチャンでクリスマスなどを非常に大事にする人だ。耳が遠く腰も悪いが、杖もなく普通に歩ける程度。

 祖父は県で賞を取るくらい写真がうまくて、80にもなって機材を背負って若い人と山を登って写真を撮りに行くのをようやく諦めたらしい。それも歩けないのではなく、ペースが遅くて申し訳ないのだそうだ。7kgある機材を持って江の島に写真を撮りに行ったが、転んで骨折したとか、膝の調子が悪くて整形外科に行ったら80とは思えない状態を保っていると褒められて帰ってきたとか、高齢者の定番トピックである医者の話にしても、人より遥かに「健康」である。

 

 しかし、この健康さゆえに私にはどうも自分の祖父母である実感がわかない。両極端過ぎて理解が追い付かず、話すと自己憐憫的な母方の祖父母の話になってしまう。

 

 普通に帰省して、普通にだらだらして少しお小遣いを貰える普通の祖父母の家ってどこにあるんだろう。そもそもそれって本当に普通なのかな。

ネクラとネアカ

 永井均という哲学者をご存知だろうか。高校生の頃に人に教えてもらって読んだ彼の本が、「考える」ということを教えてくれた。倫理とか哲学というものに興味を持ったのも彼のおかげである。さて、先日『子どものための哲学対話』(永井均講談社文庫)を購入した。これは子ども向けに書かれたかなりやさしい本だが、さっと読めてまた「考える」ヒントをくれた。全部で40ある対話のうち、「ネクラとネアカ」という章について考えようと思う。

 この本に出てくる猫のペネトレは、ネアカは「いつも自分の中では遊んでいる人」だ、さらにこういう人は上品だと言う。逆に言って、ネクラは意味のあることをしたり認められたりしなくては満たされない人だ、下品だと言う。大学でサークルに入ってから私はインキャだとか自称してきたが、この意味で言ってまさに私はネアカだと思う。

 

 嫌味に聞こえては申し訳ないが、中高の頃から勉強は嫌だとか辛いとか言う人がよく分からなかった。別に禁欲的なわけでも勤勉なわけでもない。定期試験でいい成績を取るために勉強すると言うより、新たに何かを理解するという実感が「楽しい」から1人で勉強するというのが勉強の動機だったからだ。学校の進度はゆっくりでつまらないし、元来コツなんかを人に教わるのも嫌いで、うんうん言いながら自分で習得する方が「楽しい」のだった。夜9時に寝て朝3時に起き、1人で朝食べるおにぎりを作ってお茶をいれて、早朝の静かな部屋で青チャートを進める時間は「楽しい」という他なかった。中3の頃からあまり真面目に取り組まなかった定期試験は自分でやった内容の良い復習になった。

 大学に入るといろんな授業があったが、中でもよかったのは数学と物理であった。ずっと前の人が見つけた考え方を習得するのは「楽し」かった。毎回授業に出て任意のレポートを出して着実に自分で習得することが「楽しい」から、私はそれを実行した。しかし周りの人はあまり「楽しそう」ではなかった。授業を切っておきながらテスト前には焦り出して誰かに頼る。来ている人でも、寝る。パソコンを開きキーボード音を高らかに鳴らして違う授業の課題を進める。やはりテスト前には焦る。一言で言えば「楽しくなさそう」だった。別に授業に来いと言うのではない。来なくたって自分で勉強して、悠々とテストを迎えるような人は何とも思わない。自分で片をつけて、授業がある固定的な時間をもっと「楽しい」ことに使えるならむしろそれでいいと思う。

 

 猫のぺネトレは、なんでも「楽しい」と思っている人はずるをしないとも言う。例えば将棋の勝負中、相手が席を外した隙に駒を勝手に動かすことだってできる。それをしないとすれば、勝つことを目的にしているのではなく将棋の真っ向勝負を楽しむのが目的だからである。大学の授業についても同じようなことが言えるのではないかと思う。つけ足しておくと、私は皆に大学を楽しめと言うのではない。ただ自分の楽しめるような道を選択した方が良いのではないかと思うのだ。

 

 私は人生で起こる大抵のことはゲームだと思っている節がある。ここで間違えたら終わりの大一番、戦いといったものは大好きだし、人前で何か目立つことをするのも苦ではない。一般に嫌がられるような仕事だって後々効きそうなことなら苦ではないが、とかくルールを遵守したい。それはガチャの乱数をいじるとか、ルールを外れて改造した道具を用いるという手段では真っ向勝負にならないように思うからだ。

 これを読んでいる方はーもしそんな方がいればの話だがー今の生活を楽しめているだろうか。あなたはネアカだろうか、ネクラだろうか。

好きな人について

 いきなり何を言い始めるんだという題である。普段からものの言い方がきつく、どうにも人好きには見えないとは思うが、私は人が好きだと自分では思っている。人が好きであり、それから人を好きでいたい。

祖母のことなど

 母方の祖母の脳の血管が切れて、病院に搬送されたのは私が小学1年生を終えようという3月のことだった。近所に住んでいた祖母は毎日のように会う人であったから、それから生活のすべてが変わった。やはり脳の血管が切れると性格が変わるらしい。優しかった(少なくとも幼い私にはそのように接していた)はなんと怒りっぽくなったことか。些細なことが気に入らずに叫びまくる祖母の姿など、見たくなかった。

 小学校も高学年になると、祖母の介護をする母親の愚痴を一人前に聞かされた。愚痴が描く像は私の知っていた祖母ではなかった。叔父についての愚痴も聞かされた。これも同様、私にやさしくしてくれた叔父の話とは思いたくなかった。

 母もストレスが溜まっていたのはよく分かる。でも私が「そんな話は聞きたくない」と言っても、だって本当なんだもの、とやめてくれなかったことだけが悲しい。私が祖母や叔父をいい人だ、大好きだと思っていた事実は、嘘になってしまうのか?

 

中高の頃

 この疑問を抱えながら過ごした中高時代、いい人だと思っている友人や先輩、先生の悪口をほかの人の口から聞くのは耐えられなかった。誰しも好きな芸能人のスキャンダルは嬉しくないだろう、それと似たようなものだ。まるで悪口を言われているその人と話したいい思い出自体が泡になって消えてしまうようで。

 私は人を好きでいたかった。だから耳を、目を閉じることにした。なんであれ私に優しくしてくれたことは事実だと決めた。それでは相手のことを何もわかっていないと思われても仕方ないが、好きな人の悪い面を直視できなかった。

 決まりを後押ししたのはゆずの歌詞であった。岩沢厚治さんが作詞作曲した「大バカ者」は有名な夏色のシングルのカップリング曲である。

  きっと本当の声も 素直な心も 優しさも 人はみんな持ってるんだ 今はただ気づかないだけ (ゆず 大バカ者)

優しい人を疑う私には人の「善さ」を信じ切る岩沢さんの歌が刺さった。

 そこまで腹を決めたけれど、祖母と叔父、それから母にはこの決まりを適用できなかった。寝付けない時に頭の中で語りが始まる。もう10年近くも前のことを思い出して、自分がかわいそうで泣く。今も。

 

このごろ

 大学に入るとお酒という新しい、刺激的なアイテムが日々の生活に加わる。私はまだ未成年で一滴も飲んだことはないが、そんな大学生の日々にもお酒は無関係ではない。正直に言ってお酒はあまり好きではない。味の話ではなくて、その存在が、だ。

 18、19にもなると人間ある程度、理性を以て己をセルフプロデュースしているだろう。それをいとも容易く剥がしてしまうのがお酒だ。これまで他人伝いで知らされた人の醜態などを、お酒によって本人から受容することになる。私は人を好きでいたい。少し酔った人と接したり後から二次会の様子を写真で見たりするくらいで嫌悪感は抱かない。だがいずれ本格的に酔った人を前にして、皮の剥がれた人を見て、自分は何を思うのか不安が付きまとう。

 どうあれ、私は基本的にみんないい人で優しくて好きだなと思っているし、今後も好きでいたい。