恋すると

本当は一個前の記事はこの題名になるはずだった。気づいたら私がストレートの舞台をどのように捉えているかの話になってしまったので、題名を変更した。

今回こそ、題名に沿った話をしたい。

 

ご存知の方もいるかもしれないが、現在22歳、大学をこの春卒業するわたくしは恋人がいたことがございません。

中高6年女子校の免罪符もそろそろ効かなくなってきた。まずいぞ。

しかし毎日は結構充実していて、これは間違いなく俳優T(もうみんな覚えただろう)に恋する毎日を送っているからだと思う。最近やっと認めたが、これが恋したと言わわなければなんと言うんだろうと思う。

 

大学2年の夏にTにハマってから、Tのオタクとして恥じないために見た目をなんとかしようと漠然と思った。

はじめに考えたことは「服は何を着ればいいんだ!?」であった。インスタとかを漁ってそれなりに考えた。よく言う顔タイプじゃないけれど、フリルやレースって顔じゃないな…ピンクって顔でもないな…などと自分の顔と服の相性も考えなくちゃと思った。

まああの、今でもおしゃれとは言い難いとは思うけれども、一応真っ当な人間っぽい服は着られてるかな…と思う。ちなみに色は黒白メインで主に寒色の差し色を入れたい派。

 

次は「顔面…どうする!?」であった。高校を出るまでろくに化粧などしなかったし、あんまり気にしていなかった。とりあえず一重が不利であろうことは電車の二重整形の広告で理解していたが、別にそこまで二重に執着はなかった。だから一重メイクとか検索してみんながどういう創意工夫を凝らしているのか、服同様に色々吸収した。スキンケアも何がいいとか肌のタイプがどうとか、随分調べたなあ。

結論としては「まず、盛り耐性がないことを自覚する。一重を生かすため、よくある可愛い系は目指さない。まつ毛は基本上げない。下まぶた目尻に色を入れて横長の目を目指す。前髪が無い分眉は真面目に描く」といった感じ。

 

3つ目は「髪型もっとなんかあるだろ」。当時は前髪なしのボブだったが、あんまり合っていなかったような気がする。楽だったし、昔の水原希子の髪型なので好きなんだけど。

Tはしないけれど、私はセンターパートのイケメンがとても好きだ。服や化粧で学んだが、地雷系や量産型みたいな可愛いのが合うタイプではないので、中性的な髪型もいいなあと思っていた。というわけで、ハンサムショートにした。これは我ながら、結構似合っていたと思う。最近はまた別の目標ができて髪を伸ばしている。

昨年11月末にTがインナーカラーを入れたので、私もお揃いにしようと入れてみた。これがまた案外と、我ながら似合う。就活などで戻すけど、また入れたい。Tのおかげで開けた新しい扉。

 

4つ目は「下着も気をつけるべきでは?」。ユニクロのブラトップでよくないすか?という適当生活をしていたのに、もうね、Tのことが好きという気持ちが大ジャンプした結果ですね、恐ろしい。下着も考えて選ぶべきでは?と思い始めた。あんまり赤裸々に話すのもどうかとは思うのでここらでやめておくが、シンプルで可愛いシリーズを見つけて、毎日ハッピー。最近出た新色も買って、もっとハッピー。

 

5つ目は「アクセサリー、真似しよ」。元々私は耳に物をつけるのは好きだったので、イヤリングは持っていた。かたやTはネックレスとリングをつけるタイプで、舞台俳優には珍しく(?)耳に穴が開いていない。

先ほども言った通り好きというだけで人は大分妙な行動に出られるもので、Tを真似しようと思った。首の詰まった服が好きなので、ネックレスは常時使うわけではないが、リングはTと同じ位置に着けている。怖くてごめん。

また、元々興味はあったが、Tの真似をしたい思ったことが後押しでApple Watchも買って、バンドも似たようなものにしている。今では大事な相棒。AirPods Proも買ってお揃いにしたいな、右側落としたらしいけど。

 

このように、Tに出逢う前後では私の心の持ちようも見た目も結構変化したと思う。恋すると人は可愛くなるとか言うし、これはやっぱりTに恋する毎日を送る事実を認めなくてはならない。

ありがとうねT、本当に毎日幸せ。

オタクではない人に「推しって付き合えないじゃん?」と純粋な疑問として聞かれたことがあるが、付き合えないからって好きであることをやめられるわけがない。凡そ世の中の片想いと変わらないよね。

開き直って、毎日大好き。毎日恋をする。いつでも幸せを願っている。

 

しかしこの話は、ここで終わらなかった。ハピエンで終わりたい人はここまでで閉じてください。

 

私の入っている大学のサークルでは、年度ごとにLINEグループが作られる。2歳下の後輩 (男)は私が1年生の時のサークルのLINEグループを見る術が無いはずなのだが(だって当時彼は高校生なのだから)、私の同期(男)に見せてもらった際に私の1年生時の写真も見たらしい。それで同期に「(私)さん、垢抜けたんですね」と述べたそうだ。LINEを見せた同期から聞いた。

とても親しいというわけでもない後輩に客観的にそう言ってもらえるのは頑張りが認められたようでありがたいが、なんとなくゾッとした。

 

全部Tのためにと言うと恩着せがましいが、Tのことを好きなあまりにやったことだ。それを外野から垢抜けましたねと言われると、違います!!と言いたくなる。いや、認めてもらえるのはありがたいのだけど。

それに、私は人に過去の写真を見られるのが苦手だ。いつの時代も振り返って自分が可愛いと思えたことがない。ブスとか脚太いとか罵られたことは無いけれど、それは周りが優しいだけ。

他の人が綺麗、可愛いと言われるのを聞くたびに、自分は綺麗、可愛いと言われないことによって自分が綺麗ではないことや可愛くないことを知ってきた。

そのくせ可愛いとか言われると嘘つけと思うのだから本当に捻じ曲がっているが、思ってもいないところから評定をつけられるとどうにもゾッとしてしまう。

いくらTのことが好きでもそこが治らない。う〜ん。何かよい心の持ちようがあれば教えてください。

ストレートの舞台

少し前の記事で書いたように私は2.5次元を中心に活動するTという俳優を推している。彼は超人気俳優というほどでも、駆け出しというほどでもない、近ごろは演技も歌も上手くなったなあと思う中堅くらいの立ち位置である。

 

個人イベントは毎年やってくれるわけではない。Twitterの更新頻度は高くなくて、舞台が無いと更新が一か月空いたこともある。インスタや配信番組もないしブログも書かないから、本当に得られる“供給”が少ない。

グッズというとブロマイドやアクスタのように自分の顔で真っ向勝負をするものは出してくれるが、自分で絵を描いたTシャツとかトートバッグみたいなものは出さない。アパレルコラボもやらない。カレンダーも出さない。“概念”売りみたいなものは好まないのかなあと思う。

地震が起きたときに「大丈夫ですか?」とか、「成人おめでとう」「今年も一年お世話になりました」といったいい人感の出るツイートもしない。自分の誕生日と新年のあいさつはツイートをしてくれる。

とにかく媚びが無いなと思う。今どきいくらでも自分をよく見せることなんてできるけれど、媚びない。まあSNSを好まないのもあると思うけれど。

そんな調子なのに、何もない日でも私はTのことを今日も好きだなあ、元気で過ごしているかなあと考えている。傍から見たら結構やばい領域に入っているのかもしれないが、この状態が2年半続いている。

 

ストレートの舞台

そんなTが、今年の2月下旬には名が二番目に並ぶような主要な役である舞台に出て、4月下旬には主演で別の舞台に出ることになった。どちらもストレートの舞台だ。

ストレートというのは2.5次元舞台と対比させた言い方で、ゲームなどの原作がある2.5とは異なりその舞台の為に一から考案されたのがストレート、というと伝わるだろうか。

2.5の弊害

2.5を悪いものとは思わないが、役者に求められるのは「どれだけそのキャラクタに寄せられるか」である。役者の個性ではない。だから2.5の中では、役者は異なる作品でも同じような役にあてがわれがちで、役者自身の成長を促せないのが痛いところだなあと思っている。

以前Tはインタビューで「悪役やクールな役もやってみたい」と言っていたが、Tはその大きな目を筆頭とする可愛らしい顔立ちから、天真爛漫・元気・明るいキャラクタにあてられることがほとんどであった。

初めてのストレート

約1年半前にTはとあるストレートの舞台に出た。Tは初舞台が2.5で、その後も出演作のほとんどが2.5であったから、確か初めてのストレートだった。

彼の役は、若干妙な服を着たマッシュルームヘアの美大生。童貞で、居酒屋でバイトをするギャルに惚れ込んで毎日通う、あか抜けない男の子だった。

なんとこのマッシュルームヘアは地毛だった。また舞台は夏の話で水着のシーン、即ち上裸のシーンがあるのだが、あか抜けない童貞美大生を表現するために敢えて筋トレなどをせず、仕上げない身体でTは出演した。一応イケメンで売っているわけだし、本心ではマッシュルームヘアはしたくないだろうし、仕上げた身体を見せたかったんじゃないかと思う。でも板の上にいるのはTではなくて童貞美大生だからそうしたという心意気がかっこいい。

キャラクタの詳細が決まっている2.5と違って役者が役をくみ取って工夫するのはストレートならではだなあと思ったし、そこにTの考え方や芝居への姿勢が見えるのがとてもすてきだと思った。

少し逸れるが、現代美術について長いセリフでいわゆる“早口オタク語り”をするシーンがあった。Tの課題の一つ(と私が思っていた)活舌が大幅に改善されていてとても嬉しかったのをよく覚えている。

2月下旬に出た舞台

この舞台も衝撃的であった。先述のように元気いっぱいな可愛い男の子を演じることの多かったTが、クールで知的な役に、それも仲間を裏切る悪役にキャスティングされた。

ハリー〇ッターみたいな男2女1の3人組の幼馴染で、ハー〇イオニーみたいな知的な落ち着いた立ち位置。3人組の中で女の子ともう1人の男の子が想いあっていることを察して病んで裏切るという、2.5ではまず見られなかった役だ。

活舌はもっと良くなっていたし、殺陣がとてもうまかった。実はこの舞台は様々な業種の芸能人が出ていて、メインとなる6人の出演者はT以外本業が役者ではなかった。だからこそのプレッシャーもあったと思うが、私が以前見た時とは比べ物にならないくらい殺陣が優美で丁寧だった。

メイン出演者の中には初舞台のアイドルの男の子がいた。彼のオタクは結構客層として厚かったと思われるのだが、感想ツイートを見ていると「推しのアイドル目当てで見に来たのに、気づいたら推しそっちのけでTを見ていた」「Tのブロマイドも買ってしまった」といった声が見受けられて嬉しかった。実際、Tのブロマイドとアクスタは会場物販分が売り切れた。

Tの目標が一つ叶ったことが心底嬉しかった。それに、元のキャラクタ人気に左右されず、純粋にTの魅力によって多くの人を夢中にする力があるということが分かって誇らしかった。

4月の舞台

これはまだポスターしか情報が無いので何も言えないが、Tにとって大きな一歩になるのではないかと思う。先ほどから述べているように、私はストレートの舞台にこそ役者本人の姿勢が表れると考えている。それに、主演だ。

2.5では役者にあてられる役が似たようなものになりがちだと述べたが、そのためTは主演になりにくい。主要となる4人組の3,4番手といった感じの、いい役なんだけれども主演ではないというパターンが多い。

人生では誰もが主人公だが、漫画やアニメで主人公になるキャラクタにはある程度型が存在する。海賊王を目指すル〇ィとか、某夢ノ〇学院のスバ〇とか。誰でも主演になり得るというのも、ストレートの良いところだと思う。

とても楽しみにしているから、またストレート語りの記事を書くかもしれない。

 

追記

2.5次元にもいいところはもちろんある。何より、推しが目の前で等身大で動くという点だ。漫画やゲームのストーリーで推しの話があっても、全ての動作が事細かに見えるわけではないし、アニメになってもまだ画面を隔てている。推しが“居る”という実感が元も得られるコンテンツだと思う。

私自身Tに出逢ったのは2.5次元の舞台だし、今や若手の登竜門的な意味合いもあるし、決して要らないとは思っていない。

サークル

長かったサークル生活がそろそろ終わりを迎えようとしている。ようやく卒展も終わり、あとは追いコンと卒業式かな。

 

思えば、激動の4年間だった。散文的に、でもできるだけ時系列で書いていく。

 

一年目の初夏に、某事件。とある土曜日に事件についての臨時総会があったが、ちょうど私の19の誕生日だった。毎日1限から5限まで片道1.5〜2時間の大学にいた私にとって、大事な休日、しかも誕生日。まだまだサークルに愛着も無かったから、それだけのことで欠席した。

そして夏合宿の役職決め。三年まで逃げられなくなる“会計”に私は自ら手を挙げた。サークルはあれこれ入って辞めるのではなくここ一つと心に決めていたし、サークルでのイベントなどを楽しむ「権利」にはそれ相応の「義務」が付き纏うと考えていたから、苦ではなかった。単純にリーダーより支える側の方が性に合うので、幹事長決め戦争を回避したい気持ちもあった。連盟の役職は地獄でしたね。私は授業があって会議に行けないので、できなくてもどかしかった。

連盟合宿。各大学の一年生がレクをしなければならなくて、他の同期はだるそう。でも私は、やるなら大真面目にアホなことをやった方が面白いという思想である。誰も案を出さないから私が話を進めたら途中で嫌だと言われ、挙句に社会的によろしくない案を出されてキレてしまった。当時2年生のNさんに仲をとりもたれた記憶がある。

スキー合宿は中止になったなあ。初めてのスキーになるはずでした。合宿のために買った可愛い手袋とニット帽は真冬の自転車用になりました。

 

2年、なーーんにもなくなっちゃった。キャラの強い一年生が3人入ってきた。後の三役ですね。某事件で減った同期がさらに減ったなあ。

来年の役職決めは唯一会計に内定している私が仕切った。色々決めたけど、まあ「面白い」展開になっちゃったね。

 

3年、新歓。2年入会も含めて、今まさに会でときめく後輩が入ってくれた。

春の展覧会はまず実長が飛ぶ事件から始まった。「副だから軽めだよ」と副実長をお願いした子に実長をやらせる運びになり、大変申し訳なく思った。そもそも春の展覧会には2人実長希望がいたのに、飛んだ彼が留学のためというので2人には冬の展覧会に移動してもらったという経緯があり、多方面に本当に気を揉んだ。コロナ云々で延期されてモチベが下がり、大学のミスで会場が予約できていないことが判明し外部を探すことになり、なんとか夏に開催したなあ。しかもその時には幹事長が目の不調で来られなくなり、本当にてんやわんやでした。

夏合宿はあえなく中止。

冬の展覧会は、もうこれも本当に申し訳なかった。春の展覧会希望の2人(A,B)のうちAを実長、Bを副実長にしたけれど、影の実長はBだった。委員が行くはずのOBOG展の挨拶は、私とBで伺ったこともあったね。春の展覧会も含め、私の采配ミスだったなと心を痛めた。

 

4年、春は楽しかった。追いコン色紙で幽霊4年が炙り出され、色紙に書く内容が無い…という事態を3年見つめてきたから、そういう気まずい迷惑をかけない4年になろうと決めていた。だから新歓にも顔を出して、春季展も参加して、結構顔は覚えてもらえたと思う。

なんか元副幹事長があれやこれやして夏頃に消えた。卒展は会計のはずだったが、元副幹事長が飛んだおかげで初めての展覧会委員を務めた。ここの読者の1人には散々愚痴を聞いてもらったし、明文化すると私という人間の心の狭さを象徴するようなので省く。

 

4年間を通して、私は主人公であったことはなかった。私以外の誰かを台風の目として何かが起こり、しかしそれを詳らかに教えてもらえる程度には中枢にいるという微妙な、まさに三役における会計の立ち位置だった。

完全に知らなければ幸せなのに、詳細を知る非当事者というのはちょっとしたストレスになると思う。

 

私は日頃からあまり間違ったことは言っていないつもりだが、お世辞にも心は広くない方だと思う。自分に厳しいのは勝手にすればいいが、他人にも求めすぎだと自分でも思う。

嫌なら嫌だとクレームをつける傾向があり、もういいやと思えばクレームを付けるまでもなくさようならというタイプだ。大事に思うゆえに子供に説教する教師タイプと言うのかな。

私の関わらないところで適当な、自由を履き違えた、愉快な大学生どもが色々な事件を起こしてきたが、そのほとんどに私はクレームをつけていない。そうするまでもないと思ってしまったからだ。

 

色んな人に出逢って色んなことを学べて、良かった。と言える自分でいたい。

後輩は特に大好き。可愛い(見た目の話に限りませんよ)子たちがたくさんいて、話し足りないよ。

あともう少し、みんなよろしくね。

 

好き嫌い

好きなものはたくさんあるが、嫌いなものもたいそうある。

私とご飯に行ったことのある人は、食べ物の好き嫌いの多さを知っているだろう。母は、この子は何を言っても食べないと諦めて強要しなかった。

葉物野菜が大嫌いだった私は中学2年生で初めて、レタスを食べられるようになった。今でもちんげん菜とか白菜とかは嫌いだけど。

私はあまり母のことを尊敬はしていないが、あれも嫌これも嫌と食べない子を14年間も待った点については端的に凄いと思っている。

 

 

家族

母のことを尊敬していないのには一応私なりに訳がある。人とあまり近しくなるのが嫌いだから、もっと言えば怖いからだ。

「我が家」「大好きなお父さん/お母さん/パパ/ママ/おじいちゃん/おばあちゃん」「家族の絆」

…怖い怖い怖い。こういう言葉が苦手。嫌い。

家族だから、と献身的に世話をした結果大変な苦労をした人を間近で見ていた。家族だから、なんて一言でなんでもしてあげようするとロクなことがないんだと子供ながらに思った。

こういうのを大切にする人のことは、否定しない。けれど、忌み嫌う人のことも、認めてほしいな。多様性の時代ですし。

別に誰かに後ろ指を指されたことなどないけれど、何か自分が悪者側のような気持ちがする。認められないような被害妄想があるほどに、嫌だという気持ちが増す。

 

大事な“友達”

私にだって、この人のためなら出来るだけのことをしたいし、世界に対して願うことの一つに「彼女が少しでも自主性を持って幸せに生きてほしい」を挙げるほど、大事な友達はいる。

でもそれは、一番仲のいい友達だからではなくてその子だから、と言いたい。お互いドライな所があるから、友達なのかどうかもよくわからない。けれど最後はあの子しかいないと思う。

 

即物的な事実として他者を大切に思うことはあるのだけど、それを家族とか友達とかそういう普遍的な概念に落とし込んで話すのが嫌い、ということかもしれない。

 

地震

先日地震があった。あったね。結構揺れたね。災害があると芸能人が“大丈夫ですか?”とツイートをする。あれがひどく苦手だ。

ファンを大事に思っているような、遠い他者を慮っているような、そういうのが何かうそっぱちに見えて怖いから。

先日書いた一番好きな俳優Tは、地震があってもツイートしない。4年ほど前までは地震ツイートをしていたようだが。

正直とても助かる。彼の外見や技術はもちろん好きだが、情が薄そうなところが助かる。

それは例えば、卒業や別離にあたって泣かないような、そういう薄情さ。

 

薄情

これを読んでいる人が私のこと、これを読むまで優しくていい人だと思ってくれていたらいいな。そうありたいよ。

でも、私は結構薄情だと思う。多分あの子は知ってるな。

 

LINEとか、ダラダラ長くするのも嫌いだし。Twitterで壁打ちして、反応したい時だけ返してくれればいいんだ。1:1で話すのは結構大変。電話は慣れた相手なら黙っててもいいし楽だなあ。

Twitter>電話>>LINE、かな。

 

情に溺れると幸せな結末は難しくなる。

一線引くと楽だよね。

早くその一線を飛び越えられるようになりたいな、たった1人でいいから。

愛とかそういうの

とある俳優が好きだ。Tとしておく。舞台俳優で、Twitterのフォロワーは4.6万人程度。いわゆる2.5次元俳優。最近は2.5次元俳優の映像進出も目覚ましいが、彼は中堅あたりだと思う。

 

他にも何人か好きな舞台俳優がいる。私は舞台俳優の沼に入ってまだ1年半ほどなのだが、見る目がないのかと思うほどついていない。

 

1人目の俳優は女性関係ですっぱ抜かれて舞台を降板に追い込まれ、表舞台から消えてしまった。とてもショックだった。彼は私が初めて見た、そしてTに出逢った2.5次元舞台の、座長だったのだ。何年もその役を演じてくれていた分、安定感もあって素敵だなと思っていたし、何より顔が好きだった(身も蓋もない面食い)。なかなか目も当てられないことが記事には書かれていたようだが、真実は闇の中。何を信じたらいいか分からない。本当に悲しくて、今でも彼のことを友達との話題に出す。

結論としては「女を殴っていようが何だろうが、顔が好きという事実は変えられないから堂々と○○の『顔が』好きと言って行こう」ということになっている。

 

2人目の俳優は女優との恋愛関係にあったことを公表せざるを得ない状況になったが、女優側の方が全国的に名の売れた人だったため、売名行為などと非難された。そしてこれまた嘘か本当か分からない、聞くに堪えない話が記事に書かれ、精神的にやられて現在は活動していない。涼しげな顔立ちで優美な役がよく似合い、仲の良い俳優との絡みも好きだった。最近はストレートの舞台にも多く出ていて、舞台俳優として躍進していたのが嬉しかった。

すっぱ抜かれて叩かれて消えていくのは2人目だったから幾分立ち直りは早かったが、それでも傷の深さ自体は変わらない。

 

3人目は、これは別に非難されるべき話ではないのだが、結婚したのだ。2.5次元俳優はテレビドラマにでるような俳優よりも知名度が低い分、ファンとの交流が濃く、ソロイベントではお話会があったりツーショットを撮れたりするアイドル的な面がある。だからこそ30代に入っても独身の人が多いのだが、2021年の年末は突然の結婚ラッシュであった。そしてそのラッシュの皮切りになったのが彼である。

おめでたいのに、遠くに行ってしまったという感覚。神様に愛されたとしか思えない常人離れした美貌の彼にも、結婚という卑近(というべきか)な制度が適用されたという驚き。よりによって私の好きな俳優がスタートダッシュをしなくても…という他の俳優ファンへの嫉妬。

いやあ何とか吹っ切れて、先日はイベントに行ってツーショットも撮りましたよ。優しくてかっこよかったですね。ははは。

 

思えばテレビに出ている俳優やアイドルしか知らない時代から、あまりついていなかった。

顔がいいと思っていたジャ○ーズは大麻を持ってたし、某俳優は不倫をしていた。

そうそう、年末に認知したジュニアの子は、これまた女性関係ですっぱ抜かれて退所していた。推していたわけじゃないのだけれど、こうなるともう自分の芸能人の趣味が禍(わざわい)の根源のような気がしてくる。いや、結婚は全くもっておめでたいのだけれど、心のショックという意味で。

 

さて、こんな感じで舞台を見始めてから超特急で心をずたずたにされてきたが、その度に一番好きな舞台俳優Tのことを考えた。

Tが女を殴っていたら?違法所持をしていたら?そのことを記事に書かれたら?

最近もTが出演している舞台を見に行ったが、やっぱり好き。どうあがいても好き。大きくて訴えるような目も、低い声も、人懐っこい話し方も、全部好き。舞台でダンスをすれば映える大きな手、他の人より深く落とす腰、全体にメリハリのある動き方。Tにしか目がいかない。視線が吸い寄せられる。

こんなに好き好き、と言える相手はそうそういない。同時に、これほど私を幸せにしてくれた人も稀有である。Tの画像を見た時間、舞台や円盤を観劇した時間、観劇の行き帰りの高揚感に溢れた時間、インタビュー記事を読んだ時間、友達にTのことを語った時間…数えきれない時間を幸せにしてもらっている。

何をしていても、どんなことが裏であっても、手のひらを返して責め立てることなんか私にはもうできない。何も語れない。ただ、Tがこの先もどうか幸せで在ってくれることを願うしかない。

 

だから「何があろうとも、これまで幸せにしてもらった時間を忘れたり、なかったことにしたりしないし、人が変わったように貴方を詰ったりしないよ」という意味を込めて「T、愛してるよ。いつでも愛してる。この意味が伝わるかなあ。」と近ごろ言ってしまう。

先日行った舞台ではこれが最後になったって構わない、後悔しないぞという心意気でペンライトを振り、うちわを振った。

愛しているよ。

北極と南極

人に思うこと

例えば人と話していて、こんなことが分からないのか、どうして今ここで問われていることを見抜いた返答ができないのかと純粋にびっくりすることがある。なにもバカにしたいのではない。中学受験をしたあとの中高の同級生、大学受験をしたあとの大学の同期。学校の入試を通したならボーダーより下の人は入れないのだから、自分と同じ程度の人がひしめく空間だと毎回勘違いする。そして、冒頭の純粋なびっくりである。

これも嫌味な言い方だが、私は結構頭も回る賢い方だと思う。けれど世の中どこまで行っても上がいて、自分の賢さは上の下ぐらいだろうとか考えているから、ついつい自分より上の階層のことばかり目に入る。そして自分より下の層の、そして大多数である人々に出会うと驚いてしまうのだ。

 

期待すべきではない

私は他人にいつも期待して、勝手にがっかりしている。

例えば待ち合わせに早めに来るとか、遅れるならそのことをできるだけ早く分かる限りの情報を添えて連絡するとか。友人に急いで要件を伝えなくてはいけないときに多少そっけない文章であることなんかどうでもよくて、簡潔な要件の送信が最重要であるとか。時間をおいてやり取りし合うメールやLINEなら、頻度を上げるか内容の濃さを上げるかの対策を講じないと何も進まず相手もイライラするだろうとか。他人が”布教”としてBlu-rayを見せてくれるならスマホなんかいじったりせずに真剣にすべてを目に焼き付けるとか。

相手も私のことを気遣ってくれるだろうと内心期待しながら他人に優しくする。当然だと思っていた「気遣い」は当然ではないので、私にだけは返ってくることがなくがっかりする。

 

まるで正反対

一方である友人は人に期待しない、特に何も感じないと言う。私も友人も人間の行いや活動に対して考えすぎている。みんな気にしないことを議論して生きている、スルースキルが低い。

この友人とは似ているようで、実は正反対。私は人間に期待しすぎ、友人は期待しなさすぎ。まるで北極と南極である。さしずめその他の幸せな他人は温暖湿潤気候に暮らすとでも言うべきか。

私たちはお互い生きにくいと感じていて、いつも世界の他者に対して思うことを話し合う。そんなことを議論している時点で、一等不幸な種類の人間である。きっと大多数の幸せな人間は、みんな何を考えて生きているんだろうと気に留めないのだろう。幸せなら、そのまま歩み続ければよいのだから。

 

それでも

それでも私は人が好きなんだと思う。人のことが好き。ずっとずっと諦めきれず、何回でも期待して、がっかりし続ける。人が好きだからやめられない。

本当にみんなが幸福な時が来てほしいし、人の優しさが搾取されない園を希う。

奪うぐらいならいくらでも奪われた方が幸福だ。

おはなし

今日はつらつらと書いてゆく。

 

話したい。

 私は常々話したいことがたくさんある。何かを見ると「なんだか〇〇みたいだね」、また何かを見ると「そういえばこんな話があるよね」。目と耳と脳の記憶を溜めているどこかがはたらいている限り、この手の発言は止まることがないだろう。

 そして、一つのものから連想したり思いついたりしたことを人に話したい。だって、聞いたらその人も「なるほど!」と楽しくなると思うから。

 実際にはみんなに私の発見は通じない。なぜって、それはこれまで見てきたものが私とは違うから。例えば同じ映画を見たことがあっても、私が記憶している詳細をみんなが覚えていないから。

 こんなに悲しいことはない。言葉は、私の話す言葉は人と私をつなぐためにあるというのに、話していることが通じないなんて。世界は残酷ね。

 

優しい

 自分で言うのもどうかと思うが、私は人に甘い。優しい。俗にいうお人よしじみたところがある。頼まれたことに時間を少々割いたところで困らない程度に暇だし、私に害を与えた過去もないなら断る理由はないのだ。

 中高に通っていた時は掃除や監護当番(という謎の放課後見回り当番)を代わってくれる相手を探している子の当番を代わり、エプロンをして行かないと怒られる掃除場所に当たった子にはいくらでもエプロンを貸した。

 テスト前に勉強を聞かれたりノートを見せてほしいとLINEで言われたりすれば、自分のやっていたことを止めてその子の為に問題を解いたりノートを写真に撮って送ったりした。

 今だってそうだ。誰かの課題を手伝うことを厭わず、人に何かを貸したり与えたりすることをためらわず、人が面倒に思うような雑事を引き受ける。

 

けれど、みんなのいちばんになれないの。

 

どうして

 普段は意識してこなかったが、私が人に優しくするのは畢竟、話し相手を求めているのではないか。もしかしたらこの人は私の話に「なるほど!」と言ってくれるかもしれない。私が「なるほど!」と思うような話をしてくれるかもしれない。

 探している相手は、誰彼構わず話してみないと出会えない。みんなが私の「良さ」に気づいてはくれないかと探し続けている。博愛主義的なところがあると自称しているが、きっと話し相手欲しさがためだ。

 そしてみんなに分け隔てなく接すれば商人の役得とでもいうべきか、さらに多くの価値観を吸収してアイデアは豊かになってゆく。

 だけど、みんなのいちばんにはなれないわ。

 

続 どうして

 どうしていちばんになれないのか。答えは簡単、私が相手を「一番」らしく扱わないから。こんなに簡単な、しかも自分が原因のことのために私は何を悩んでいるのだろう。馬鹿らしい。

 でも、でもね、この人は探している「話し相手」かしらって探るときにね、普段考えていることの一片を見せてみるの。これについて来られなかったら、私の奥底までついて来られないもの。それでね、結局ね、一片でさえついて来られる人なんてほとんどいないのよ。

 だからこれからも、博愛のこころで人に接して、探すしかないの。

 一人いれば十分じゃないかって?それではお互いに世界が広がらないわ。それにね、どんな人とも、いつでもいつまでも一緒にいられるわけじゃないの。できるだけたくさんの人に私の話で「なるほど!」と思ってもらいたいし、たくさんの話を聞いて「なるほど!」って思いたいの。

 

 私の話を聞いてくれる大学で出会った友人の一人は、私と中高からの友人(=数少ない話し相手)のことを「新種」と形容したが、そういうことかもしれない。つまり、たくさんの人に話を聞いてもらいたいと思うあまり、その言動は一般的な同年代の人間からズレていったのかもしれない。

 

まとめのようなもの

 世界の終わりの「死の魔法」という曲をご存じだろうか。今のSEKAI NO OWARIになる前の、世界の終わりによる曲。これを聞いているとどことなく人間の外から歌われた歌のような気がして、他人事に思えない。

 これからも「みんなが大好きよ」と決して嘘ではなく、心の底から言って、みんなの一番になれずに生きてゆくのかしら。